こんにちは、リビングボイスの石塚です。
神奈川県の真ん中に位置する厚木市は、神奈川県内で7番目の広さを持つ街です。
厚木市と聞くと、米軍厚木基地を思い浮かべる人が多いようですが、実は日本の歴史の中で、重要な土地だったことをご存知でしょうか?
歴史好きな方たちの間ではよく知られていますが、鎌倉幕府を開府した源頼朝や、戦国武将である毛利氏が誕生したゆかりの地が、現在の厚木市なのです。
この記事では、厚木市の歴史や、鎌倉幕府ゆかりの歴史的建造物について紹介します。
最後まで読めば、今持っている厚木市のイメージが変わるに違いありません!
建久3年、源頼朝が鎌倉幕府を開府します。
鎌倉幕府は、武士が中心となって政治を行う武家政権で、日本で初めて誕生しました。
鎌倉幕府は、源氏が衰えたのち、北条氏が執権を握り、約100年も続いた政権です。
鎌倉幕府が開府された土地は、現在の鎌倉市にある、鶴岡八幡宮から少し東へ行ったところにあり、大蔵幕府跡という場所になります。
この大蔵幕府跡の周辺には、源頼朝のお墓もあります。
日本の歴史で重要な鎌倉幕府が開かれた場所は、現在では「清泉小学校」の敷地となっています。
「清泉小学校」の東側には、「東御門」と記載された石碑があり、鎌倉幕府の歴史に触れることができます。
源頼朝の鎌倉幕府と厚木市は、戦国武将として有名な毛利氏誕生につながりがあります。
厚木市の歴史として重要な、毛利氏については、次の章で詳しくご紹介します。
・鶴岡八幡宮
鎌倉を代表する歴史的背景の強い神社です。
鶴岡八幡宮は、源頼朝をはじめ、源氏や鎌倉武士の守護神として崇められていました。
鎌倉幕府を開府した、源頼朝は、鎌倉市の鶴岡八幡宮と、南側にある海を結んだ若宮大路を中心として、まちづくりを行いました。
源頼朝は、この鶴岡八幡宮で、相撲や舞楽などの行事を行っていたそうです。
鶴岡八幡宮が、日本の武士道精神のよりどころとなっていました。
日本の歴史において、重要な神社として、国内はもちろん、海外からも多くの参拝者が訪れています。
鎌倉駅から徒歩で行けるため、厚木市からもアクセスしやすいです。
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
アクセス:JR鎌倉駅東口・江ノ電鎌倉駅から徒歩10分
・宇都宮稲荷神社
源頼朝の没後、幕府内での争いが激しくなり、北条氏の執権政治がはじまります。
北条泰時は、幕府の役所などを鶴岡八幡宮の南側に移動させます。
そして、源頼朝がつくった若宮大路の東側に、宇都宮辻子御所がつくられました。
北条氏の歴史においてゆかりのある、この宇都宮辻子御所の跡地の一角に、宇都宮稲荷神社があります。
規模は小さく、鳥居の奥に小さな杜があるだけの稲荷神社ですが、藤原頼経が、若宮大路に幕府を移動させるまでの11年もの間、政治の中心だった場所なのです。
「宇都宮辻幕府跡」と書かれた看板もあり、歴史を感じることのできるスポットです。
歴史好きな人たちの間でも、マニアックなスポットとして有名な宇都宮稲荷神社で、ぜひ鎌倉幕府の歴史を体感してみてください。
住所:神奈川県鎌倉市小町2丁目15-19
アクセス:JR鎌倉駅東口から徒歩8分
・厚木市は歴史上重要な土地
厚木市は、戦国武将として有名な毛利氏発祥地であり、実は日本の歴史上で重要な場所なのです。
厚木市は、相模平野の真ん中にあり、山や川に囲まれた自然豊かで温暖な気候に恵まれた土地であることも、有力な武士がたくさん誕生した理由のひとつでしょう。
この住みやすさから、縄文時代の早い時期から、人々が定住していたといわれています。
弥生・古墳時代にも、遺物や遺構などがたくさん発掘されています。
・毛利氏は厚木市で誕生
源頼朝が、武士が初めて政治を行う鎌倉幕府を開府しました。
法律などの知識が豊富で、朝廷の内情などにも詳しい人物が求められます。
そこで鎌倉幕府に呼び寄せられたのが、大江広元です。
大江広元は、鎌倉幕府に大きく貢献したとして、資源豊かで重要な土地である、相模国毛利庄を与えられます。
相模国毛利庄が、現在の厚木市なのです。
大江広元の四男である季光は、相模国毛利庄に居住し、「大江」姓から、「毛利」に変え、毛利氏が誕生したのです。
現在の厚木市である、相模国毛利庄の領主であった毛利季光が、毛利家の先祖であるといわれています。
・毛利氏は厚木市から中国地方へ
毛利氏は、鎌倉幕府滅亡後も、途絶えることなく、南北朝の争乱、戦国時代といった歴史を生き抜き、有名な戦国大名である、安芸国(現在の広島県)の毛利元就や、幕末の長州藩主(現在の山口県)である、毛利氏へと血筋がつながっているのです。
毛利氏の発展の歴史をみていきましょう。
源頼朝時代から仕えていた有力御家人と、北条氏との対立が起き、横須賀市周辺の三浦氏が挙兵した、三浦氏の乱が起こります。
そんな中、毛利季光は、北条泰時の孫に娘を嫁がせて姻戚関係を結びます。
しかし、季光の妻の実家は、三浦氏であったため、戦いでは三浦氏の味方につきます。
激しい戦いの中、三浦氏は敗れ、季光も自害してしまいます。
季光の四男である経光は、関東を離れており、三浦氏の乱に巻き込まれずに生き残ります。
幕府から毛利氏は信頼されていたため、安芸吉田庄(広島県)は取り上げられず、当時経済の中心地であった瀬戸内海のある西の方が有利であると判断し、経光の四男である、時親が吉田庄に移住します。
その後約230年後に、毛利元就が、守護大名を倒し、中国地方全域を領地にしました。
小さな国の領主だった毛利氏は、戦国大名へとのし上がったのです。
・荻野山中陣屋焼討事件
現在の厚木市で起こった、歴史上重要な事件が、荻野山中陣屋焼討事件です。
幕府は大政奉還を行いましたが、倒幕を志す薩摩藩は、戦端のきっかけとして、関東地方で騒乱の計画を立てます。
そのひとつが、荻野山中陣屋焼討事件です。
他の計画は失敗に終わりますが、荻野山陣屋襲撃により、山中陣屋は焼失したのです。
・山中陣屋跡史跡公園
荻野山中藩大久保家の陣屋があった跡で、およそ80年間にわたり、存在していました。
御殿が設けられており、長屋や馬屋、稲荷杜や湧水、井戸、物置などがあります。
史跡を通じて、歴史を感じることができます。
住所:神奈川県厚木市下荻野251
・戊辰戦争
この荻野山中陣屋焼討事件は、歴史を大きく揺るがす戊辰戦争の発端のひとつになります。
戊辰戦争とは、鳥羽・伏見の戦いからはじまり、五稜郭の戦いで終結した、新政府軍と、旧幕府軍との内戦のことです。
徳川慶喜(旧幕府軍)が、朝廷に政権を返上し、幕府を廃止しましたが、権力を維持し続けていた旧幕府軍に反感を抱く新政府が、武力で旧幕府を倒すために起こした戦争です。
薩摩藩邸浪士中心の浪士隊と、庶民など300人により、荻野山陣屋が襲撃され、焼失した事件は、武力による倒幕の引き金となり、その後鳥羽・伏見の戦いから、戊辰戦争への遠因となったのです。
厚木市は、現在のイメージからは想像しにくいかもしれませんが、日本の歴史上、重要な土地でした。
山や川など自然に恵まれており、住みやすい気候である厚木市は、昔から人々が集まる場所だったのです。
厚木市の歴史スポットへ、ぜひ足を運んで、歴史に親しんでみてくださいね。
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